黒爺のハーフボイルドな71年

黒爺の食い散らかしの恥 書き捨て

FM レディオ・モモ@79.0MHz

メガトンロックンロールショー 19時からオンエアー 60min.
ロックンローラー岡野氏から、村八分を実際に観た感想はどうでしたかとメールが来た。どうやら先日山口冨士夫のライブを観て火がついたらしい。僕が村八分を体験したのは1971年4月である。僕はうれしくて返事を書き始めた。
以下 要約一部改変
僕が見たのは1971年4月日比谷の野音「ロックフェスティバル・イン・日比谷」です。僕は上京したてで、こんな大規模なコンサートは、はじめてだしどんなバンドが出るのか何も知らなかったけどすっ飛んで行ったね。午後2時に始まって9時まで。切符代は500円くらい。満足なPAがなくて大きなボーカルスピーカーが左右に置いてあった。ツーマッチ、モップス、ルイズルイス加部、デビュウ前のガロ。三上寛とか成田賢もでたかも、10バンドくらいは出たな(記憶違いがあるかもしれないがこんな感じ)。このコンサートは夏にVOL.2があってPYGがやじられて演奏が中断したのは有名な話。
とまぁ、こんな風に書いていったら止まらなくなって1000文字を超える返信になってしまった。
夕刻になって周囲が村八分が来る来ないの議論をしていて、なんなんだろうと思ってました。陽が落ちで暗くなったステージにやっと貧弱な照明がともっても最後のバンドが出てこない。ずいぶん待った気がする。
そんなときに現れたのが「村八分」。のっけからチューニングの音がそれまでのバンドと違っていて、まずデカイ、音の羅列がかっこいい。周囲では「うそだろ!本当に来たよ」とか「なにあれ!お化粧してる」とか、いろいろ声が飛んでいたけど、大多数は村八分のことを知らない反応だった。「気持ち悪い」と言う女性の声が否定できない感じだったな。もっとも知ってる奴は狂乱してたね。
いざ始まってみるとサウンドはもろストーンズなんだけど、立ち振る舞いが怖い。客の反応ににらみ返す。関西なまりのMCはほとんど叫び声のようにしか聞こえない。PAのせいだったかもしれないが。
「ヤマグチフジオ!」と周囲の誰かが叫んだとき、僕はなぜか社会党の委員長浅沼稲次郎を思いだした。1960年日比谷公会堂で演説中に刺されて死んだ。刺したのは右翼少年「ヤマグチフジオ」。僕が小学生の頃の事件だがまだ記憶から消えるほど時間は経っていなかった。
(もちろん別人.追記有り)
 ヤマグチフジオの赤い335は、鮮明で音のデカサもさることながらグルーブ感が凄かった。「気持ち悪さ」は吹き飛んでしまって夢中になってしまったね。目に焼き付けておきたかった。日本にこんなバンドがあるんだ。しかもよく聴くと歌詞が日本語だ。当時はロックと日本語の論争があって、日本語で歌うのはのりが悪いというイケンが支配的だった。それは「はっぴいえんど」によって覆されるんだけど、そんなのよりチャー坊の叫びは言葉を音に換える、といっていいのかギターとボーカルが入り交じった高揚感。「う〜う〜う〜どうしようかな」「お〜〜なんと恐ろしい」断片しか聞こえてこないけど、ドラムやベースといった個々の音は全く覚えてないくらいに一体化したサウンド。ひとつのバンドを見たというより体験したって感じでした。芯から感動した18才の春でした。
まぁ、こんな感じで返信したら、今夜の収録に来ないかと誘われた。面白そうなので行ってみた。

なにしろ40年前の話なんで、岡野氏を交えてパーソナリティーの宮本氏、エンジニアの国定氏と収録前に共通認識を探る作業から始めないといけなかった。コンビニどころかペットボトルや缶コーヒーもない時代だ。野音へ手ぶらで行った僕は午後2時から9時まで飲まず食わずだった。売店には瓶コーラや瓶ジュース、あんパンくらいはあったがすぐになくなった。空腹の絶頂で村八分を観たわけだ。それでも明らかな記憶と感動があったこと、これがうまく伝わるか、幸いにして御三人はすぐにわかってくれた。宮本氏の的確なフリに岡野氏が応え、僕が時代背景をしゃべる。なんとなくいい連携が出来ていい番組になったんじゃないかとおもう。
ぜひ今夜午後7時レディオモモを聴いて欲しい。
追記:友人から指摘がありました。「浅沼稲次郎の刺殺犯は山口二矢(おとや)です」。いままで「山口ふじお」だと思っていた。不二夫を連想したのかな。ありがとう訂正します。